2010年11月30日

『どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?』書評

 小説ではないですが、大変面白かったので書評を書かせていただきたいと思います。


 世の中には様々なプロ競技がある。例えばゴルフで圧倒的な賞金王が誕生したと言っても、半分以上の大会で一位を取っていないだろう。爆発的に数回優勝する選手もいれば、コンスタントに上位をキープする選手もいる。しかし「全大会優勝」などという偉業はまず達成されないだろう。またマラソンに至っては連続して大会に出ることがまずない。選手は遠い先の大会に合わせてコンディションを整え、全ての大会の中から数個だけに出場する。有力選手同士が同じ舞台で競わないまま競技人生を終えることすらあり得よう。
 将棋はどうだろうか。将棋はだいたいのプロが全てのタイトルを取るチャンスを持っている。負けさえしなければタイトルがとれるのだから、非常に簡明に一番になることができそうな気もする。また、一度タイトルを取れば防衛すればいいので、七番勝負なら三番、負けることができる。いやしかし、である。百人を越える棋士の中で、「ほとんど負けない」というのは大変なことである。将棋は一対一の勝負なので頂点にたどり着くまで七回も八回も負けられない勝負が続く。しかも一番上には「三回は負けてもいいですよ〜」という王者が待っているのである。やはり、タイトル一つとるのも大変だ。
 そんなタイトルを、七つ同時に有したのが羽生という人である。勝ち上がってきた挑戦者を次々となぎ倒し、負けられない戦いを勝ち上がり何度も挑戦権を勝ち取った。とんでもない。ゴルフでいえば「全大会優勝」に近い偉業を達成してしまったのではないかと思えてくる。(言い過ぎの気もする)
 なぜ、羽生には(そして、羽生にだけ)それが可能だったのか? それは確かに、私の中にもある疑問だった。それ以降も一番先頭を走り続ける羽生。それを題材にしたのが本書である。
 本書を読み終わり真っ先に浮かんだのが、「ああ、将棋界もそうなのか」ということであった。「も」とは、「学問の世界と同様に」ということである。本書の中で特に印象的な場面は、羽生が勝ちながらも対局相手に厳しく当たるシーンである。最善を尽くせば難しい局面で相手の心がぽっきり折れてしまった。その将棋はまだ解明されていない未完成なものであるにもかかわらず、物語の途中で幕を下ろされてしまったような気分になったと推測される。私自身も、専門書を読んでいて同様の気分になることがある。「なぜそこで終わるの? 勝負にこだわればそうだけど、真理探究はようやく始まったところじゃないか」自分はまだ未熟なので、研究においては学ぶことばかりである。しかし研究書の多くは、どこか自己顕示に重きを置いて、勝敗にこだわっているように読めるのだ。明らかに間違っているという自覚があっても、論駁されにくいので発表してしまっているのではないか、と思えるものが散見される。
 以前詩人吉増氏との対談集『盤上の海、詩の宇宙』でも感じたことだが、羽生は驚くほどに「勝ちたい」と言わない。自分が負けることになっても、そこに新しい将棋の可能性が見出されるのならば満足してしまうのではないか。その姿勢はどこかソクラテスにも似ている。「私は本当は賢くはないんだよ、ほら、打ち負かしてみせて」羽生は自らが負ける時の喜びを知るために、最大限勝つ努力をしているかのようだ。それは羽生がある変化の中で、詰むと思っていた手順が実は詰まないことを説明する場面でも感じられることである。羽生は長い変化手順を挙げた後「今並べた手順、もう絶対に公式戦で現れなくなってしまうでしょう」(p.224)と述べる。実戦に現れないまま研究が進み、難解で変化にとんだ「面白い局面」が、ファンの目には触れられず、将棋の歴史の中で一瞬も輝かないことを羽生は悔やんでいる。その変化はあまりにも難解で、その局面になっていれば羽生は負けていただろう。しかし羽生は、その難解の向こうに見える詰まない手順に光を当てたいのだ。羽生自身、その手順を知っている以上今からあえて飛び込もうとはしないだろう。しかし実戦の中で「詰まないかもしれない」匂いをかぎ取り、その変化に飛び込んでいきたかったのだと思う。その結果負けても、それは仕方のないことだと思っただろう。
 私自身は、そのような「真に負けを恐れないこと」こそが羽生を支える強さの要因だと思った。著者はまた別の視点を持っているし、なるほどと思った。そして何より、羽生という人間の魅力は、まだまだ底が見えていない気がしてきた。
 付け加えるならば、敗者のインタビューが充実しているのが非常に素敵だ。私は敗者が好きだ。こう書くと悪趣味なようだが、敗者には敗者の美しさがある。何よりタイトルに挑戦する棋士たちは、敗者といえどもその戦いにおいては世界で二番目に強い者たちなのだ。六十億以上の人類に勝りながら、たった一人の男に勝てないばかりに敗者になってしまう人たちの物語。本書には、そのような側面もある。そして敗者に注目する人は、彼が勝者になった瞬間の喜びをわかちあえる人でもある。「どうして羽生さんだけがそんなに強いんですか?」その問いを解明するために、最強の敗者たちを応援するというのが、将棋ファンの楽しみ方の一つなのだ。
 そして本書を読んでまず思ったのが「藤井さんには? 豊島さんには? 広瀬さんにもインタビューしてよ!」ということだった。将棋の世界は広く、深い。羽生はそれを厳しく、時には温かく見守る父親のようですらある。羽生がいることにより、羽生が目標となり、時には憎しみの、時には愛情の対象になる。羽生がいることで他の多くの棋士の光が増していると、私は思う。これから、台頭してきた多くの若手が羽生と対決することになり、悲喜こもごも様々な物語が生まれ、新たな歴史となっていくだろう。そして著者梅田氏には、その様子を書き記し続けて欲しいのである。

どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?―現代将棋と進化の物語 [単行本] / 梅田望夫 (著); 中央公論新社 (刊)
posted by らくは at 21:46| Comment(3) | ★紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
実は先日「修羅の門」っていう漫画を借りまして(借りぐらし)。まあ古武道の使い手が格闘家と闘う物語。幾多の格闘家、武道家が命を削った闘いというか最後はほとんど殺し合いみたいになるんですけど。

「修羅」たちは、目の前に「闘いの神(死神かも)」の影を見た時、凄惨な笑みを浮かべる。自らの敗北を、もしかすると死を予見しながらも、まるで世界の深淵を垣間見た、とでも言わんばかりに。

もしかすると羽生が「真に負けを恐れない」のは、自らの目の前に「闘いの神」が降臨するのを切望しているからではないか?…とか思ったり。

自らの力が及ばない局面を目の前にした時、多くの人は絶望感に襲われる(はず)。超一流の棋士だけがそれを前にして「凄惨な笑み」を浮かべているのかもしれません。実際に笑ってるかどうかはともかく。

羽生について再三言及される「狂気」には、死線を彷徨う武道家の如き戦慄すら感じることがあるのです。

そして…
「僕自身は、一流になれないことは分かっている。必死になってしがみついて…」(幸典/『五割一分より』)
このセリフ、「敗者の美しさ」が凝縮されているようで好きです。

一流の戦士たちに必死になってしがみついて行かなければならない世界の、凄絶なまでの清涼感。一歩間違えれば転落していく恐ろしい世界で、ストイックに闘い続ける棋士たちの何と魅力的なことでしょうか。

それはそうと、『どうしてらくはさんは、そんなに敗者が好きなんですか?』
Posted by ぜいらむ(コメント職人) at 2010年12月01日 08:35
コメントありがとうございます。

羽生さんは最近「将棋の神様」と言わなくなりました。それは絶対的な神よりも、身近に偏在する神に思いを寄せ始めたからかな、と思ってます。

勝者は僕でなくても見つけられる、というところがあります。僕自身何をやっても一番になれないので、「二番以降はその他大勢」という見られ方は強く実感しています。しかし敗者という役目は、一番の人にとっても不可欠です。そこに注目し続けたいと思っています。
Posted by at 2010年12月01日 12:46
↑らくは(管理人)でした。
Posted by rakuha(管理人) at 2010年12月01日 18:30
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